写真:岩崎醸造(ホンジョーワイン)(山梨県)

岩崎醸造

(山梨県)

当社は、ぶどうとワインの発祥地「岩崎」でぶどう栽培とワイン醸造に努力していた醸造免許者130名が、1941年に共同して設立した会社です。
勝沼町岩崎に工場を持ち、農家と協力して、ぶどう栽培の安定、ぶどうの産地づくり、ワインの品質向上に努め、地元では《ホンジョー》の愛称で親しまれています。
常に風土の香りを大切に、勝沼で好かれる個性豊かなワインづくりを心がけています。

ワイナリー情報

ワイナリー名
岩崎醸造
代表者名
三科 隆
住所
〒409-1313 山梨県甲州市勝沼町下岩崎957
電話番号
0553-44-0020
URL
https://www.iwasaki-jozo.com/
営業時間
8時30分~17時00分
定休日
11月〜7月 : 日祝、第4・5土曜日 / 8~10月: 無休 / 年始年末、お盆
見学の可否
可(要予約)

ワイナリー取材記

Q.昭和16年3月に設立とのことですがその前のそこに至るまでの歴史というのをお話いただけますか。

その前はですね、農家がブドウを作ると同時に、ワインというものを作っていたと。その当時は免許もいらなかったということで作っていました。

130名の個人醸造家はその免許がいらない時代でその後、免許事業となりこの村の役場がですね、代筆して、税務署へ申請したと、こういうような経緯があります。

Q.現在で何代目になりますか?

今で6代目です。

Q.さかのぼると村長になりますか?

祝(いわい)村という、あたしの親が村長をやっておりました。全部じゃなかったけど130名の人が集まってきたという経緯があります。

Q.当時はほんと130名それぞれがそれぞれのワインを作っていた?

そうですね。ブドウというのは畑で屋外で作っておりますから、そういうものは、風水害なんかにやられてしまったと。

それに何か付加価値をつけて売ろうというのが日本のワインの始まりなんです。

Q.当時は生食も作られていた?

当時は農家の人たちはワインでなくて生食用ブドウをつくって、東京の市場へ出荷していたと。それが今言ったようなことで何かやられてしまったときに加工するという発想が出て来たということです。保険じゃないですけど、害があったときのためにということで、一部を加工してワインにするという風な流れがあったんですね、当時。

Q.いつからか「本格醸造のホンジョーさん」と、略してホンジョーさんと。

はい。それが昭和12、3年ごろから酒税を出すということになってきたんですが、昭和16年に太平洋戦争が勃発する。そうしますと軍部がですね、このワインから酒石酸を取りたいと、これを、私、はっきりしたことは忘れてしまいましたが、船の電波兵器の薬品に使いたいと。

軍部がお前たちは部落ごとに一緒になれというようなことで、昭和16年に130名の人たちがが集まってきて作るようになったと。その前は全部、個人個人がブドウを作ると同時に作っていたと。

ですからこの村も、いくつかその共同醸造組合というのがあるんですが、ほとんどがみんな50軒から60軒が部落ごとにまとまってワインを作ったと。そのまま戦時中ずっと来まして戦後今度はまた、うちが昭和28年に株式会社にしたんですが、これは組合というのは責任体制がはっきりしないから、税務署の指導で何とか会社組織にしてくれというようなことで、昭和28年に株式組織にしたという経緯をたどっています。 Q.岩崎醸造株式会社。それまでの組合員さん方々は、株式会社にしたときに株主さんという形になりました。

そうですね。畑の耕作面積とかそういうものも表にして、それから財力とかね、そういうあんた何株も持てるかというようなことで会社を作ったんじゃないかと思いますけどね。ですからこの辺にある個人でやってる会社も全部、その共同醸造組合から始まってます。うちのような形態で農家とともに歩んでいこうというような形態を取っているのはこの勝沼町に3軒だけあります。わたしの会社と大泉葡萄酒、それから錦城葡萄酒。この3軒だけです。あとは全部、組合が個人のものになっていった。 Qなるほど。当時からその農家さんと一緒にというのは今の3軒ということなんですね。現在もその農家さんとのつながりがずっと続いている。今現状は農家さん何軒くらいのお付き合いになってるんですかね。

うちが擁してるのは130名ですが実際には100名近いくらいの人じゃないかと思います。 Q農家さんも他のところにもブドウは売られたりしてるんですか。

ほとんど農家と言ってもこの辺の農家というのは生食用、いわゆる生で作るブドウを主力にしてますから。ワイン原料だけでは食べていけない。この辺は耕作面積が少ないんですよ。だいたい平均の五反か六反。50アールか60アール。ですから今出てるシャインマスカットとかそういうものを作って、醸造用の甲州っていうのは手がかからないからね、余力っていうか、そういうもんで少しはね。どうしても生食用は手がかかりますから。手のかからない醸造用も少しは作る。そんなような状態ですね。

Q.「本格醸造のホンジョーさん」と言われてるというのは何が違ってたんですかね。他の当時のワインとこの岩崎醸造さんのホンジョーさんというのは。

まあ信用度がうちが一番あったということなんでしょうね。原料があそこに入れとけば安心だというようなこともあったし、出来上がってくるワインも、あそこのワインだったら大丈夫だよというようなことじゃないかと思います。

Q.年間の生産本数は何本くらいになりますかね。

7万本。扱いのブドウ品種としては、甲州とベーリーAと。アジロン、シャルドネ、甲斐ノワール、メルロー、そのくらいですね、種類は。

Q.自社畑という形では?

自社畑もやってます。

自社畑というのは非常に定義が難しいんですが。わたしのところでは全部株主ですから、その人たちがつくってるのは全部自社畑という解釈もできる。それと同時に、自社畑というのは自分で耕作してね、作るのを自社畑と言うんじゃないかと、わたしはそんなように解釈してるんですが、そういうことでわたしのところでも約1町歩くらい、1ヘクタールくらいを借入して、自社でつくってます。

Q.岩崎という土地。ここの特徴としてはどういうところがあるかっていうのもご紹介頂きたいんですけれども。

ここはですね甲府盆地を中心として東に位置している。水はけが良い、日照時間も長い、風通しが良いということで、果樹を作るのに適しているというようなことで、早くからそのぶどうを作り始めた。そういうことはここに住んでいる人たちの信州の気性があったからじゃないかと。この村が明治10年に二人の青年、土屋龍憲と高野正誠をパリの万博にかこつけて、時の県令、今で言う知事がですね、二人の青年を船に乗っけてマルセイユの方へ連れていったということで、そういう早くから新しいものをやろうという気性に富んでいたんじゃないかと。

今まさに日本の中でもぶどうといえば山梨、山梨の中でさらに勝沼、さらにこの岩崎っていうような。今で言う、ブドウは山梨っていうイメージがこの地から始まったっていうことになりますよね。そこからパリに、フランスに修行に行って日本のワインがっていうところですよね。甲州ぶどう発祥の地。この発祥の地。どういう経緯かいろいろ説がね、その行基が持ってきたとかね、それからもう一つ雨宮館伊が岩崎山の中から山ぶどうをね持ってきてそれを改良してったというのが色々あります。それから大善寺の行基の説があったり。いずれにしてもそういう説があるんですが、このぶどうっていうのはね、シルクロードを通って日本にもたらされたんではないかと。これがあの一番の強い線ではないかと思ってます。

Q.なぜこの地だったんですかね、ぶどうが広がったっていうきっかけは。 自然、当時からあったんですかね、自生していたぶどうが。

はい、あったと思います。山ブドウが。

いずれにしても、この土地の人はさっき言ったように東京に近かったから、新しいものを何かやりましょうというね、そういう気概に富んでたんじゃないかと。ですから割に早くからいわゆる製糸ですね、お蚕みたいなものを始めたり、ぶどう作るのを始めたりというようなことじゃないかと。

Q.昭和の初期に山梨はブドウの産地としてもう認知されてるようなところでしたか?

はい。もう昭和の初期から。歴史、ものの本に書いてあるように鎌倉幕府へぶどう献上したという資料がある。行基がここへやってきたという説はね、792年だと思います。その当時からまあブドウはあったんじゃないかと。

Q.斉藤さんに醸造のところをお伺いしたいと思います。

斉藤さんの醸造家としてのキャリアなんですけれど以前はどこかで作られていたんですか。 盛田甲州ワイナリーに6年半ぐらいおりまして、ここに入って13年目です。

Q.醸造、ワイン作りに関して、掲げているポリシーと言いますか、大事なベースとなるものはありますか。

やっぱりぶどうの良さを引き出したい。自然にそのまま。良い年は良い年でっていう。悪い年もそれなりに。できるだけの良さを引き出したいなと。特徴を。

ぶどうの声を聞くじゃないですけど。色々技術的なことはしたくはないなと。 食品ていうのはね基本は真面目に作るということが大事だと思います。やっぱり腹の中に入れる飲み物ですから、真面目に作っていくと。自然に作られた物を生かして、自然を生かして作っていくというのが基本じゃないかと。ですからこのテーブルの上に乗っかってどの酒が飲まれるかというのは、美味い不味いより先に、真面目に作った酒と。ありがたいことにうちの酒は、よく結婚式なんかで色々な所ね酒が出てくるんですが、まあそうしますと、美味いまずいでなくて、あそこの酒を注いでくれ、というようなことが第一じゃないかと思いますね。

Q.ホンジョーさんは、歴史がもちろんあったというのも大きいと思うんですけど、地元の人にとっては特別な存在ですよね。

色々な人が、地域の人が出入りをします。うちの会社は結構この地域の人たちの人材が集まっていましたから、そういうことでね、うちの会社を皆さんが、地域の人たちが本醸学校と言うんです。 ここへ勤めた人で、後で農協の組合長になったり、色々な人が出てきた。それだけ人材が集まったということじゃないかと。こういう組合的な会社をやってくには何と言ってもチームワークがないとなかなかいかないと。権利は主張するけど義務は果たさんというようなことがね、組合の悪い所だから。それを乗り越えてここまでやってきたと。 もう70、80年近くやってきたと。これもひとつの信用じゃないかと。

Q.各農家さんに対してワイナリーの方から指示とかそういったものはないんですか。各々にお任せしているというような形なんですか。

基本は信頼してお任せしています。今はブドウが原料が不足している時代なんですよ。うちの会社の方から値段みたいなものを切り出すことはない。それでも農家の人たちは、あそこに持っていけば程々の値段で買ってくれるからというような信頼ですね。 他の会社が、誰も持ってくる人はないと思います。みんな値段を切り出して、取る場合には内緒の金額もあるでしょう。そういうものないと思って。

Q.アジロンはどんなブドウですか

アジロンというのは明治時代には一大原料だったんです。赤ワインの原料といえばアジロンだと決まっていたんですが、当時にさっき言ったように生食で出していた。この一番の欠点は、脱粒する、ぶどうの粒が取れやすいということで、東京の八百屋さんの店頭に出た時にボロボロして、皿盛り、皿に持って売るようになってしまった、そういうことで嫌われたと。当時も赤ワインとして、香りもあったし、非常に人気がきっとあったと思いますが、そういうようなことでだんだん廃れていったと。だけどまたここへきて、ああいう昔のような懐かしい味もいいねというようなことで一部の人たちが、割にその病気にも強い。これを作り始めて、そしてまたワインとして香りを楽しむというようなものが出てきました。

Q.メルローとシャルドネはいつから扱い始めたんですか。

今から20年ぐらい前じゃないかと思いますけどね。その当時はワインといえば赤であればカベルネが一番いいというようなことを言われたからね、私どももカベルネを植えてやってみましょうということで、かなり植えたんです。植えて10年とか15年とか経っていろいろやってきたけどね、どうしてもカベルネはこの土地に合わない。色がついてこない。芯までまっ黒にならない。断念してうちでもほとんど去年あたり切ってしまった。

Q.メルローとシャルドネは合いそうですか、この土地に。

合ってるかどうかはわかりませんがね。それなりに作れるからね。日本のシャルドネっていうのは香りがちょっと乏しいなと。やっぱりこれは雨量の関係かなと。日本というのはご存知のように、水には不自由しないけどどうしても雨が多いから、 病気にもかかりやすいし、外国のワインのぶどうっていうのは皮がみんな柔らかいんですよ。だから病気にかかりやすいと。それから湿度が高いとどうしても糖度は落ちてくると晩腐病にかかるから大変なんですよ。

そういうことでこの辺はほとんどが醸造用のぶどうでも雨に当たらせないと言うのが一番病気に守る方法だということで、生食用も醸造用も、傘かけをこの辺は励行しています。

Q.最近は温暖化で色々な話が出てきてるところがあるかもしれないんですけどそこら辺はどうですか、ワイン作りに影響は。

やっぱり赤の品種が色が付きづらい。特にカベルネなんか。もうちょっと前の年はもっと色付きが良かったんですけど、木によってはまったくもう色がつかない、木が大きくなりすぎたっていうのもあるかもしれないんですけど。特にここ4、5年くらいはもう、そういう影響が出てますね。

Q温度が問題ですか

はい。その一つの原因は、中央道というものが開いてきて、車から吐き出す鉛のあれがね非常に影響しているじゃないかと。夜になっても、これは昔は夜になれば笹子おろしと言って笹子のトンネルのほうから吹き下ろす風で涼しくなったんです。最近は夜になっても東京の熱帯夜みたいなね、そういうのがある。これもやっぱりね、車の影響が結構あるのかなと。 そして熱帯夜というものが続くと、結局黒い系統のブドウというのは、色が付いて来るのは昼夜、昼間と夜の温度差によって色が出てくるんですよ。そういうものがないようになってきた。だんだん色がつきにくいということですね。 みんながよく、この辺は将来みかんを作るところになるというようなことを言う人があるんです。 よくここでいいブドウだと言われた甲斐路ぶどうというのがありますね、ぶどうの一番最後に出てくる本甲斐路というのがあるんですね。あのブドウは一説にはこの辺ではオリンピックぶどうと言うんですよ。それは四年に一回くらいか本収穫にならないと。あとはだめだと、どうも。カベルネもやっぱり私の経験だとそういうとこがね、四年に1回ぐらい。 Q.農家さんのブドウは棚作りですか? 棚ですね。垣根は腰を中腰にするから大変なんですよ。どちらかというと腕を上げて、こういう作業のほうが楽なんですね。中腰にするというのは、腰になんか力が入るというかね、腰に労力が行くからね、結構大変じゃないかと。私作ってみてもそういうの思います。 Q.ぶどうの作り方として、垣根と棚、特にどうしてもその、イメージとして、垣根の方が本格的なイメージがあるだけであって、実際にはぶどうの出来自体は棚でも垣根でもそんなに大差はないということなんですかね。 垣根の方がまんべんなく太陽光線を受けることができるから、糖度は多少違うんじゃないかという気がしますけどね。どうしても棚の場合は葉っぱの下に実がなりますから、太陽光線を葉っぱで遮られるということがあるからね。そういうことじゃないかと思いますがね。 それからね、日本は外国のようでなくて土地が非常に肥えていると。肥えているからね、あまりその、外国の垣根っていうのはね、結構1mか1m50くらいに木をどんどんたくさん植えて、その土地に慣らすような格好でね、まあ木というものも、そういう作り方をするとだんだん馴染んで、その土地に合うよう成長するんですがね。それでもね、特にシャルドネとかね、日本は水分が多いから、芽が黙ってると5mも10mも向こうへ這ってしまう。そうした時にそういう、あんまりね狭剪定と言うか、間隔を短く木を植えて、新梢を新しいのをカットしていくと、木に非常に無理がいくから、 実の方に栄養がいかないということもある。果たしていいのかどうかね。まだはっきりしたことはわからないけど、今のところは垣根の方がいいとは言われているけどね、どうかなというような感じです。 垣根と棚の一番の違いはやっぱり目的が違うと言うか、垣根の場合は収量制限をしやすいというのと、管理が誰でもできると言うか、要はぶどうのなる位置が全部同じで、例えば葉っぱを落とすにしても同じところをがーっと落とせばいいし、上の成長をここまでにしようというところをばーっと切っていくのも一通りで出来るんですけど、気候が雨がちだったりとか、そういうのはちょっと対応しづらいというか、樹勢管理みたいなのはあまりしにくい仕立て方ですね。

垣根の場合は、木を形を作っていく作業があるので、去年の枝ぶりを見てじゃあ今年はこんな風にしようみたいな感じで、こういう雨が多い土地には、今社長がおっしゃったように、枝の形、木の形を作って、実の品質をコントロールしやすいので、わりかし日本の気候には合ってるんじゃないかなというのが感じます。垣根の場合は木の形がある程度決まっちゃうので、なかなかそういうことを途中で変えたりとか難しいですね。

棚って言っても、いわゆる自然型と言うかX字型以外にも一文字型と言う比較的というか、垣根の形に近い状態の棚というのがあるので、そういった形でちょっとずつ変化していってると言うか。まだそんなに長い歴史がないので。棚にもいろんな形が。

剪定方法というのは、昔からよくX型剪定というのがあるんですがね、これは棚にずっと枝を伸ばしてやること、今はそういう剪定方法は、若い人にだんだんその技術がないようになってきたから、今はどちらかというと単純に作業できる一文字作り、そういう誰でも剪定できるような方法を農家の人も取り入れている。

教えてもらったってよくわかんないです。やっていってようやく木と対話できるようになる。そういう意味ではいい。垣根にない難しさがある。技術が必要ですね。経験が必要ですね。垣根は誰でもできます。棚の場合は一文字、いわゆる主しか主枝をずっと伸ばしてバサバサ切ってくという。こういうんであれば、素人でも今日連れてきてこういう風にやるんだよと言えばできます。X字型はね、連れてきたってとてもできません。それはね10年ぐらい経験ないと。

ただ広い畑を管理するってなると、棚にはしないですね多分。何ヘクタールもあるような。限られた人数でするには機械が入れないのでちょっと難しい。大手ってそういう意味で垣根が多いのはそういうところだと思います。 Q.理想のぶどうっていうのはどういうぶどうですかね。欲しいぶどうというのは。

結局この辺りで醸造用のブドウってなかなか難しいですよね。気候に合わないのか。ただ甲州で醸造用どう作るかっていうのがあるんですけど、あればっていう。マスカットベーリーAにしても。醸造用に特化して作ってみたらもっといいものができるんじゃないかとは思うんですけど。ただ具体的に栽培の方でどう作るかていうのはちょっと難しいところがあるんですけど。

こうゆう勝沼の産地っていうのは、全部取りはちょっと難しい。長野だと、ある程度糖度あげようと思ってもまだ酸度も残ったりしてるんですけど、あっち涼しいので。夜暑いとやっぱり、ハーハーハーハー呼吸して、エネルギーで酸を使うので酸がなくなってくるんです。こういう所だと両方取りは正直できないので、何かを選択しなきゃいけなくなってくる。そういうところで相談しながら収穫時期とかもう決めていくことになるんですよね。

この「玉響」っていうのはそういう意味でちょっと特殊というか。早摘みしてるんですよ。早摘みしてることで、酸とか香りを残そうっていう意図になってたりするんですけど。その代わり糖度はもちろん捨てなきゃいけないんで、そういうところは補糖とかでカバーしていくみたいな感じで。そういう何を選択するかで作り方が変わってくる。

甲斐ノワールだと僕ちょっと去年失敗したんですけど、実に日を当てなきゃいけないと。僕熟度の後半の方で取ったんですけど、全然青い香りが取れなかった。本当はもっと結実した段階で取らなきゃいけないみたいな、そういう作業がちょっと。香りを生かす、そういったところで管理のところがちょっと変わってくるっていうので生食とはまた違った栽培方法が必要になって。 でワイン作りというのは究極にはね、外国のように、ワインにする原料は自分で作る、そういう意欲のない会社はこれからダメなんじゃないかと。

畑でもなんでも借りて、まあ持つことはできないから、借りて、自分で作って、それをワインにして売ってくと。この意欲のない会社は潰れてくと私は思います。本格的にやるにはもう自分で作る以外はないと。

Q岩崎醸造さんの大樽での熟成は珍しいですね

はい。1944年の樽が今まだ現役で。 Q昭和19年の樽を使ってる所って他にもうないですか?

おそらくないでしょうね。残ってるところはありますけど、作ってるところ、使ってるところは。うちも奥とか、漏れたりするのは使ってないので、この一機だけなんですけど。

昭和19年から継ぎ足し継ぎ足しでずっと空にしてこなかった樽に入れたワインってロマンだと思います。奇跡的に残ってる。唯一生き残った樽っていうのが。 やっぱり一つのエピソード。これもまだ生き残ってますけどちょっと分からないですよね。

Qどのようなワインを目指していますか?

日本庭園のようなワイン。脈々とね、受け継がれた。日本庭園のようなワインを作りたい。

日本の気候風土に寄り添ったワインを作っていくべきだと思うので。僕ここのワイン最初飲んでぶらしたくないなと。 ブラッシュアップしたいなと思ってるんですけど。

それって栽培の方でやることで、まあ醸造は全然変える必要ない。家庭料理に合うのが日本ワインの本当真骨頂なのかもしれない。だから洗練されてない、味わいはすごいリラックスして、酸も穏やかだし。

そういう意味では、日本ワインは必ずしもワインを目指すべきではなくて、どっちかと言うと日本酒に近いものっていうふうに考えた方が、いろんな意味で日本ワインの良さが出やすいと思っています。